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12月3日AJEQ研究会報告 Rapport de la réunion d’études de l’AJEQ

12月3日AJEQ研究会報告 Rapport de la réunion d’études de l’AJEQ(12/7)

2016年12月3日(土)、青山学院大学にてAJEQの定例研究会が開催されました。
第1発表では、10月に刊行されたばかりのジュール・ヴェルヌ『名を捨てた家族―1837-38年ケベックの叛乱』(彩流社)の訳者である大矢タカヤス会員が、作品の歴史的背景について詳説してくださいました。日本ジュール・ヴェルヌ研究会からも応援をいただき、感謝いたします。
第2発表では、松川雄哉会員がケベックの伝統的なダンスについて、学術的資料を駆使しながら紹介してくださいました。ダンスの実演もあり、長い冬を楽しく過ごすための北国の人々の知恵が実感される発表でした。
詳細は、以下、ご本人からの報告をごらんください。(小倉和子・立教大学)

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日時:2016年12月3日(土)16:00~18:00
場所:青山学院大学 17号館7階17713教室
<プログラム>
第1発表:大矢タカヤス会員(東京学芸大学名誉教授)
「ヴェルヌの小説の主題となった1837-38年ケベック叛乱前後の状況」
第2発表:松川雄哉会員(白百合女子大学)
「ケベックの伝統的なダンスについて―概観と実践」
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大矢タカヤス会員の発表についての報告
「ヴェルヌの小説の主題となった1837-38年ケベック叛乱前後の状況」
 ジュール・ヴェルヌは1837-38年にケベックで起きた叛乱を題材に『名を捨てた家族』(Famille sans nom)という小説を書いた。架空の人物を巧みに史実に織り込んでいるので、物語を味わいながらケベックの歴史の重要な転換点となったこの事件を追体験できる作品である。ストーリーの主題であった叛乱は軍事的に完全な失敗だったが、物語の終わったあと、現実にはフランス系カナダ人がその敗北を乗り越え、武装蜂起の際に主張した独立とは程遠いものの、イギリス系に同化されず、曲がりなりにも今日まで独自のアイデンティテイを保持するに至った道筋を理解するために、叛乱前後の状況を再確認することは有益であろう。
 1763年にパリ条約でフランスの北米植民地がすべてイギリスに譲渡されて以来、かつてのヌーヴェル・フランスはイギリス植民地となった。イギリスはフランス系住民が圧倒的に多いこの植民地を遠隔支配するために、1791年にカナダ法を施行した。この不公平な法制度に苦しんだフランス系住民は、溜まりたまった不満と怒りを1834年に92ヶ条の決議にまとめ、本国に突きつけた。しかし、これをイギリスがほぼ全面的に拒否したので、パピノーを中心とする愛国者党は武装蜂起もやむなしとする方向へ突き進む。ただ武力闘争には慎重な少数派もいて、たとえば、パピノーの腹心であったラ・フォンテーヌは1837年の叛乱には加わらない。叛乱のあとに出されたダラム報告書は、責任政府を慫慂する点ではフランス系住民の主張と完全に一致していたが、彼らを英系に同化させ、アイデンティテイを失わせるために東西のカナダ植民地を融合すべきという提案も含む、全体として矛盾に満ちた報告書であった。ところが、イギリス本国は1841年に後者のみを取り入れたカナダ連合法を敷き、それまで容認されていた議会での仏語使用を廃止し、議員定数は人口比をまったく無視して東カナダと西カナダに同数を割り当てた。叛乱が厳しく弾圧された挙げ句に、これまで以上に不利な連合法が施行されるなど、フランス系住民にとっては暗黒の時代が続くかに見えたが、フランス系議員のリーダーであったラ・フォンテーヌは発想を逆転し、西カナダの改革派ボールドウィンと組んで連合カナダ議会の多数派となり、フランス系住民として初めて首相に就任する。以後、時々の総督に圧力をかけながら、少しずつ譲歩を得て行くのである。(大矢タカヤス)
2016,12,3研究会大矢

松川雄哉会員の発表についての報告
「ケベックの伝統的なダンスについて―概観と実践」
 本発表では、ケベックにおけるダンスの歴史を概観しながら、今日ケベック人に親しまれている伝統的なダンスを紹介した。
 Tremblay et Voyer (2001)が紹介している « Journal des jésuites »によると、ケベックで初めてダンスが行われたとされるのは、1645年のことである。この年、ある婚礼の際にバイオリンの演奏でダンスが行われた。そして1667年には、初めてbal(舞踏会)が開かれた。17世紀末には、人口的に男女の比率が整い、18世紀に入ると、balが大流行した。当時を生きた人々の手紙や日記によると、当時のカナダ人は、夕食後、寒い冬を乗り切るために、我を忘れて朝まで踊っていたらしい。また、当時カナダに滞在していたPierre de Sales Laterrièreという医者は、1770年に、「カナダ人以上にダンスが好きな国民を私は知らない。彼らはフランスのコントルダンスやメヌエットを踊り、そこにイギリスのダンスを織り交ぜている。」と書き記している。この彼の証言は、イギリスによるケベックの支配が始まって(1760年)以降、ケベックで踊られていたダンスがイギリスなどの文化の影響を受けていたことを示している。特に19世紀には、多くのアイルランド系移民がケベックに定住した。この頃、ケベックではカドリーユやコティヨンを踊っていたが、そこにアイルランド起源のジーグが組み込まれていった。ジーグはケベックでも人気となり、アイルランドとは異なる独自のジーグ(gigue québécoise)を発展させていった。
 一方、現在ケベックで踊られている伝統的なダンスの基礎となったのは、set carréというアメリカで生まれたダンスである。これはコティヨンが単純化されたものであり、さらにそこに、踊り手や演奏者に指示を与えるcallが組み込まれた。これにより、踊り手は振りを覚えるという負担がなくなった。このダンスが、夏の間アメリカの農場で働いていたフランス系カナダ人労働者によってケベックに持ち込まれた。当初、callは英語で行われていたが、1950年にOvila Légaréによってcallが初めてフランス語化され、calleurという職業が確立された。この仕事は、伝統的なダンスのイベントを盛り上げるだけでなく、ケベック各地で口頭伝承されてきたダンスが失われないように、それを収集して資料化するという重要な役割を担っている。
 この伝統的なダンスのおかげで、ケベックの厳しい冬の夜は楽しく暖かい。踊りに来る人達は様々である。すでに上手く踊れる人はそうでない人を受け入れ、初対面同士でも助け合いながら踊り続けることによって、そこに調和が生まれる。このような姿勢が、多様性を受け入れるケベックの社会を反映しているように思われる。(松川雄哉)
★AJEQ研究会2016,12,3 ★IMG_0517
(撮影:立花英裕・小倉和子)
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